興国寺(こうこくじ)

 通称開山と呼ばれている興国寺は鎌倉三大将軍実朝の菩提をとむらうために家臣の葛山五郎景倫(願性)が建立し、後に法燈国師に寄進したもの。西方寺と称していたものを南朝から興国寺の寺号をもらった。天正の兵火で焼かれていたのを浅野辛長や徳川頼宣等に再興され現在にいたる。禅宗法燈派の本山であり、尺八、金山寺味噌、醤油の元祖寺でもある。実朝の墓や歌碑、紀州徳川家ゆかりの墓がある。旧7月15日の火祭りや10月13日の開山忌などが行われる。

興国寺大門


興国寺は戦国時代の天正十三年兵火に遭い、寺宝のほとんどを焼失したが、当時は大門から中門まで渡り廊下があり、その左右には僧兵の部屋十五坊が建ち並んでいた。この大門は高さ十米位あったが、明治二十一年九月の大暴雨のため倒れたため、昭和十三年当時の雲厳老師が京から大工を呼び再建した。全部ケヤキである。
ところが時代の流れ、この堅牢な山門も、交通事故に勝てなくなった。このところ、大型貨物自動車などが門に傷をつけたり、車の振動で地盤がゆるんだりして、これが文化財保護上好ましくないとのことで、寺総代や門前区民から苦情が相つぎ、遂に鉄の防衛策となった。昭和五十一年五月、高さ三、三米の鉄骨の予防門を設置した。これにより一部関係者から、この鉄骨によって大門そのものの景観をそこなうとの意見が続出した。


旧7月15日の火祭り


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