昭和の激動(2)

由良町の心臓部 大正10年頃 神谷崎を由良の崎と呼んだ 昭和初期
 万葉集以降、古人の注目をあびた由良の崎は今の神谷崎を指し、このフィヨルド式の湾を由良湾と呼んでいたが、有田郡湯浅付近で憧々とした海に別れをつげ、さびしい山路を分け入り、由良坂を越えて再び、海を遠望しつつ眺める風景は、旅人の目を飽かせず望んだことだろう。静かな入江と港、白崎辺りの荒磯は人里離れていただけに、自然の宝庫であり優美な景観であった。青と緑につつまれた由良、歴史と文化に富んだ由良、ひなびた寒村だった由良は、いま大きく伸びようとしている。

全般に、由良といえば発展性のない漁村として明治末期まで閉ざされた日高郡の北海道というイメージが強かった。明治中期から昭和初期にかけて、衣奈・畑・大引・神谷などで石灰石が採掘され、順調に操業されたが規模も小さく期待もうすかった。


セメント工場 大正初期の旭・大分セメント 小野田セメント(江の駒) 海上輸送
紀伊防備隊設営前の中州浜 昭和初期 紀伊防備隊跡全景
 ところが、大正初期になって旭セメント会社(後の大分セメントと小野田セメント会社吸収)が設立、二十数年間にわたって村の繁栄を維持した。それは半農半漁の由良にとって大きな収穫であり、経済的な支えとなった。

セメント会社が閉鎖される前の戦争中、紀伊防備隊の基地となり軍港(?)としてちょっと華やかな場面もあったが一時的だった。しかし、昭和の初め軍港の候補地として一応詮議に上ったこともあり、この天然の良港は、近き将来大きくクローズアップされるであろうと期待はとても大きかった。
当時大きく報道された。

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