昭和の激動(6)

明治33年埋立記念碑 海軍跡の敷地7,000坪
また当時注目すべきことに、ソ連の油輸入協定に伴って、昭和八年(一九三三年)神戸の松方幸次郎氏が、ソ連から積んできた石油を貯蔵するため、由良に一大石油タンクを設けるという噂があったが実現しなかった。しかし、当時二万屯級の巨船が出入りできる天然の良港だっただけに、某会社の方面から製油場建設の計画が極秘に村当局と交渉、調査がすすめられていたため、村民の関心は非常に高まっていた。
インフレ景気のなかで大分セメント由良工場では、操業は続いているものの、今一つ陸上輸送について難題があった。当時、工場は海に面して山裾にあったが、採土された石灰石は直接工場内で行われ、出来たものはすぐ工場に横付けされ、六百屯級の船に積む方法でほとんどが海上輸送であった。
こうして恵まれた港に反して、陸上面の輸送に困惑した当局が由良内臨港線の開通することによって、陸地との交通を断たれていたのを取り戻すことに成功した。由良駅と由良内駅を結ぶ鉄道線路であった。
このようにして、由良に新しい力がよみがえった。将来、紀勢線と海を結びつけるもっとも重要な使命をもつ地点として疑いのないようになってきた。事業用と営業用の石炭の陸揚げ、セメント・石灰石の輸送がそれである。
活動の姿はようやく由良を中心に動きだしたのである。その一つに由良港埋立事業があった。すでに村営の埋立地が七千坪、由良土地会社が六千五百七十八坪、京阪が五千十二坪を埋立て、やがて発展すべき土地の基礎を踏みしめてゆくかのようであった。
しかし、それが意外な事に発展してきた。この広大な埋立地を産業の発展に寄与するとは反対に、海軍省から紀伊防備隊設営の計画が当局を通じて示されたのである。

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