昭和の激動(8)

八千代座 紙芝居
 若い男達は日に日に姿を消していった。南方の戦場へ、ある者は大陸の戦場へ兵隊として出て行った。残った者は老幼婦女子と兵役を課せられない人達だけになった。しかし、由良には紀伊防備隊があり、吹井には陸軍工廠があって、水兵や兵士達で賑わった。地方の民家にも分宿し、そのため地元の娘さんと結婚したり交際する人達が増えてきた。外出時は町や八千代座は水兵さんでいっぱい。港には掃海艇や駆潜艇・海防艦の出入りはげしく、連合艦隊もしばしば沖合を通過した。

こうしたなかで昭和十六年三月、時局の要請にこたえて村内隣保班の結成が公布され、各字に隣保班をつくり戦意高揚のお達しなどが、上意下達という一方的なかたちで行われるようになった。その度に良心的な隣保区長は心苦しい思いをし、戦時国債の割当て、勤労奉仕の動員計画、配給物資の連絡や醤油・酒・味噌の切符を配った。”トントントンカラリン”の回覧板や、貯水槽(防火用水)・火叩きや竹ヤリ訓練、国民服にモンペに、出征は兵隊さんでなく、学生も主婦も勤労奉仕に狩り出され、食糧難にそなえて家庭菜園づくりとなった。空襲の避難に防空壕なるものが各戸に掘られ、警防団員や隣組の班長・青年会員はメガホンで警戒警報を伝え、毎月決まった常会も灯火管制で暗い夜でしなければならなかった。

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