昭和の激動(9)

戦時中の薪出し
由良村が献納した艦上戦闘機『紀伊由良号』
 当時の由良・衣奈・白崎の各村長は、時局の重大さを訴え、所感を述べると共に専ら対空に関心を持ち、国家のために寄与すること昭和十九年はじめて達しをだすことになった。

戦時色一色にぬりつぶされた日本、”愛してちょうだいな”とか「わすれちゃイヤよ」なんて歌をうたうと、目の玉が飛び出る程叱られ、「ぐんぐん荒鷲ぐんと飛ぶ」だの「月月火水木金金」という軍歌が奨励され、浪曲もネズミ小僧や国定忠治などは御法度。「爆弾三勇士」や「梅林中尉」で一席弁をあげた。横浜の南垣内にある八千代座では、戦争ものばかりで広東や武漢占領の記録映画、戦争ニュースが大流行、芝居といえば兵隊さんを美化した狂言や、軍国歌謡がうたわれた。



戦没者の村葬(戦死者葬式がさかんに行われた』 日高郡が献納した愛国号
 一方、役場でも少ない職員で兵役事務に忙しく、毎日のようにくる赤紙や召集令状にてんてこ舞い。勝ってくるぞと勇ましくの出征風景が見られるようになった。紀伊由良駅まで送る小学校児童生徒や入営・出征する家族が日の丸の旗をもって軍国歌をうたい、畑青年会の楽隊に合わせて見送った。村のいたるところに「米英撃滅」の貼り紙が目につき、少しも当たらなかった天気予報でさえ、敵に利用されるという理由で廃止になり、敵国語はいっさいまかりならぬということで、野球もストライクは「よい球」、ボールは「悪い球」、セーフは「よし」、アウトは「アカン」と阿戸の埋立で野球をした。

川越・平林・三好の各氏は野球が実にうまかった。暑かったのやら、寒かったのやら、台風も地震もいっこうに記憶にない。塩分過剰で高血圧になる心配はない。いつも胃の中はからっぽだから、ガンになるおそれもなかった。勿論糖尿病などゼイタク病のあるわけはなく、タバコが手にはいらぬので肺ガンになることもない。暴飲暴食なんて言葉も二日酔も知らなかった。横浜や網代の店頭には「海軍御用達」とか「陸軍御用達」というような看板がかけてあって、その店では庶民に食べられない銀めしや鮨など、兵隊さんしか利用できない店があった。


陸軍給油所の駐屯
 北政や魚三の商店がそうであった。
毎朝九時頃、防備隊の新兵さんが由良駅まで行軍(駈足)したが、体力の弱い水兵さんはいつも最後部で、青くなりながら樫の棒でたたかれていた。軍隊生活につらい兵隊はよく入路の山へ逃げたり首をつって死ぬ始末だった。そんな世の中で、一般家庭の灯火管制は毎夜つづき、来襲警報から空襲警報と日毎に回数も多くなってきた。昭和二十年七月二十八日、米艦載機による空襲は戦争の恐怖を村民初めて体験、糸谷では惨状をきわめた。

昭和二〇年(一九四五年)八月十五日、第二次世界大戦が終結した。由良は敗戦の混乱期に入り、復員や引揚輸送がはじまり、駅頭には連日帰ってくる復員兵の姿が見られた。
戦後間もない防備隊と由良港(避難港に指定なる)

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