昭和の激動(10)

南海地震の水位の高さを表示
 一方、紀伊防備隊もごった返し、役場の機能がマヒするというところまできた。戦争が生んだ悲劇は戦後の食料難や物資の不足までひびいた。タバコを買うのに朝早くから近くのたばこ屋の前に並び、わずか十本入りのピースが数分で売り切れ、それから仕事にでかける人が多かった。また、買い出し列車は連日超満員、切符の乗車制限でなかなか乗車券が買えず、特に遠距離切符が手に入りにくかった。朝早くからかつぎ屋と称する闇屋が来て、由良駅は人でいっぱい。客車の窓ガラスがたたき割られたり、殺人事件まで起きた。当時の病院といっても栄養失調ぐらい。少々あやしいものを食べても中毒せず、たまにはメチルアルコールで目をつぶしたり、命をとられたりするくらい。消化不良で腹をこわすこともなく、ほとんどの人は苦心して買出したイモを食って、ガスばかり放出していた。しかし半農半漁の由良では、漁師と百姓の間で米と魚の交換をし、案外困ることもなかったが・・・・。

言論統制と配給時代、欲しがりません勝つまではの時代も終戦と共に消え、専ら消費生活に入った由良では、家庭も落ちつきをみせ、成金や商業人も増えて成功する人が多くなった。由良独得の名産くずの根をついてかたくりにし、海の潮を炊いて塩をつくったりした。また、山の荒地を開いて畑にし芋を栽培、食糧自給に乗りだした。

荒れに荒れた戦前戦後、戦争の悪夢からまだ醒め切れぬ昭和二十一年(一九四六年)十二月二十一日。突然大地がゆれ、ゆさぶる音に人々は飛び起きた。南海大地震と大津波である。旧由良だけでも死者十九名、全壊家屋五十三戸、流出十戸という被害であった。それはまさに予期せぬ地獄の惨禍であった。犠牲者は荼毘にふされ悲しみのうちに供養されたが、復旧は思うようにはかどらず、家という家は泥がはいって手のつけようがなかった。道路という道路にはゴミや家財道具・小舟まで流れてきて、歩行もできない状態。波静かだった由良湾も赤サビで流したようで無気味な感じだ。


7.18水害 由良内駅おとわ丸の就航
 このようにして、村民の多くはまだ水禍のショックから逃れない翌年、昭和二十二年十月十五日、由良村は由良町となった。当時の戸数1,319戸、人口6,078名だった。

当時町財政に関係なく、村というと田舎くさいので町名にしたといわれ、議会ももっぱら津波の復旧と道路の建設、港湾の改修に終始していた。つまり、町民が日頃願望している由良と白崎を結ぶ道路の完成、衣奈と由良を結ぶ道の改修、更に南海地震によって出来上がっていたばかりの道路や波止場の修理等、血みどろの復旧作業がすすめられた。そのほか海軍跡の敷地七〇〇〇坪を原油二〇〇〇〇屯を貯蔵するタンク群の建設計画を進めにきたり、当時誕生したばかりの警備隊が旧海軍敷地をそっくり欲しいと、町の援助を強力に申し入れてきた。

人口がふえ、商業が発展するためには、警備隊・タンカーで振わい、失業対策・町税収入などの面から大変よいことだったが、意見が二つに分れるなど足ぶみ状態だった。

明けて昭和二十三年八月二十七日、有田地方を中心とする豪雨は、水禍こそ見られなかったが、寸断された紀勢本線は東和歌山と箕島・道成寺と藤並間不通のため、海路関西汽船「おとわ丸」が由良港に就航、そのため町はごった返し、デラ台風・ジェーン台風・7.18水害など毎年の様に台風がきて、その度に由良川が氾濫、田畑が冠水した。早急な防災工事の対策が打ち出され、町としてもこれが緊急動議として議会に提案されるなど、あわただしい空気に包まれていった。

つづいて昭和二十五年五月、騒然たる事件が巻き起こった。白崎事件につづく由良町事件である。昭和二十七年、西川放言事件に端を発したこの問題は、後々さまざまな教訓を残した。

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