昭和の激動(12)

平和都市宣言 昭和36年5月22日
 昭和三十三年(一九五八年)七月三日、和歌山県では第九番目の県立公園に指定され、多くの観光客を集めることとなった。
あけて昭和三十四年(一九五九年)一月、平和都市宣言と新しい新風を由良町にとうたい、一歩一歩前進、再建に乗りだした。

 一方、当時の風俗も流行を追い、ワイド映画(シネマスコープ)が由良劇場で初めて上映されたり、テレビ受像が受信、フラフープなる奇妙な遊技が流行するなど、世の中の新しいものを求め、落ちつきはじめてくると、もっと何かを・・・・と考えるのも不自然ではなかった。つまり、観光由良が決まると次の急務は、どうすれば発展するか、公共施設の完備か、道路の補修か、港を生かすかそれとも観光PRをするか、大工場を誘置するか、国道を由良回りにするか、いろいろ注目されたが、町民の反応は国道の開通を期待していた。

 昭和三十一年(一九五六年)二月、有志主催による国道四十二号線誘置促進委員会が横浜・光専寺で開かれ、地元出身の代議士・各種団体・文化人など集まって協議が開かれた。昭和三十四年(一九五九年)四月、待望の国道誘置の内定が、県会でも本省でも決まり、今はただ測量して標杭を打ち込むばかりとなった。それからの町民願望は国道建設に終始した。

 「町としての当面はの急務は、国道を一刻も早く開通せしむることである。国道が開通、実現し ないことには、町も永久に発展の見込みはない。万難を排してもこの目的を達成したい」
昭和四十年(一九六五年)二月二日、国道四十二号線は開通した。華やかに祝賀式が行われ、由良港中学校講堂は記念式典、由良小学校では文化展がひらかれ、終日にぎわいをみせた。

進む  戻る


由良町探訪トップページ