昭和の激動(13)

 国道が開通してその翌々年、由良は赤いパニックに襲われた。赤痢の大流行である。昭和四十二年(一九六七年)五月十八日、由良小学校児童八名、熱患者となり欠席したのが始まりで、赤痢はみるみる広がって最高の六月八日には、九三九名が隔離された。全人口の一割近くが保菌者という最悪の事態におち入った。発生以来、保菌者退院の六月二十九日まで要した費用七千四百九十五万円、由良町はじまって以来の赤痢禍に巻きこまれた大事件だった。

恐怖の赤痢も忘れて十年目、昭和五十二年六月二日頃、有田市で発生したコレラが由良に飛火、真性患者一名、保菌者二名を出し、町は一瞬大騒ぎ。このコレラ騒ぎで四億四千万円の被害を出し、相次ぐ伝染病の発生に困惑、とうとうこの年の花火大会が中止になったり、計画していた各種行事も変更、とんだトバッチリを受けたところも多かった。


 国道が開通すれば、次は工場の誘置である。名乗りでたのが三井造船である。江の駒の浜十四万二千八百平方メートルを埋立て、工事は急ピッチに進められた。この三井造船は昭和四十五年(一九七〇年)五月、大橋知事が「三井造船が由良に進出する意向が」と発表してから具体化したもので、それからも地元との補償問題や公害問題もからんで難航を示していた。

この三井造船を誘置することによって、由良も大きく変わることは間違いないのだが、それによって起こってくる問題も山積みしていた。公害問題と補償問題である。抜本的な対策が急がれ、公害防止協定を結びとともに、補償の解決にも力を入れた。

更に、道路網の整備や宅地の造成、海岸や河川の改修、国道四十二号線と結ぶ農免道路、町道二・八キロメートルの完成、続いて延長一キロメートル幅一〇メートルの臨港線跡の道路、更に吹井から大引に通ずる農免道路の建設、大引・小引・衣奈線の改修、阿戸から三尾川に至る各所の舗装、観光道路や産業道路の工事と次々に進められていった。こうした環境のなかで新生由良町の特色は、やはり人口増に伴う住宅・商店街の建設である。過疎化に悩む他町村に比べ、逆に人口が増え、閑静だった町は一転して道路から宅地造成へと進んでいった。団地・アパート・旅館・民宿等、企業の進出と観光による発展である。


 宅地造成の中心は何といっても吹井地区である。広々としたこの辺り、一変して開発がすすめられた。続いて大字里の内、五明・三土佐・志れ田の宅地造成である。ここには一般住宅・アパート・保育所・集会所・児童館・文化センター・小集落改良事業による住宅建設等が中心で、ほかに江の駒・阿戸・門前の地域、戸津井・小引・神谷・大引・網代などの港湾整備、日高川からの取水と上水道の完備は、福祉と豊かな町づくりに一層役立つこととなった。

一方、福祉行政施設の建設もすすめられていった。あかつき園・少年自然の家、中・門前・横浜・江の駒等に集会所や老人憩いの家が建てられた。初めて開設された老人憩いの家は、南区青年会場であった。続いて新築なった江の駒、民家や公共施設・プレハブを代用して建てられていく箇所もあったが、福祉行政は順調にすすんだ。昭和五十一年(一九七六年)十月二十五日、待望の中央公民館が落成、その後体育館も完成した。そのほか、町立保育所の建設、小・中学校の増改築、プールの建設等、教育施設の充実も目立って改善されるにいたった。

このようにして新生「由良町」は希望のある豊かな町づくりをしようと、今、町民全体が明るい見通しをたてている。

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